誰にも届かない短文コラム

虚無僧が呟き切れない事を書き殴っていきます。

自由と福祉

福祉と聞くと、老人介護や医療などを思い浮かべるだろう。

しかし、今回ここで語るのは『公共の福祉』について。

 

何が違うかというと、ここで言う公共の福祉とは、憲法で保障される様々な自由権を行使する上で絶対に守らなければならない制約の事である。

 

ここ最近、左翼界隈の連中は『表現の自由』を盾に無茶苦茶しているのである。

参院選の演説の場で、集団的に罵声を上げて候補や政党の演説を妨害するという公選法違反を『表現の自由』だと言い、排除した警察を非難している。

極めつけは、愛知での表現の不自由展の中止。

過去に展示中止になった作品を展示するという、面白い企画だったが「何で中止になったか」という事を理解できていれば、そんな馬鹿な展示をしないで済んだだろう。

 

さて、まずは表現の自由について。

憲法には『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない』と第21条に書かれている。

 

集会、結社は、何かの意見を訴える為に集まり、またその意見を主張する集団を結社する事を保障しますということ。

 

言論、出版は、自己の主張をするために声を上げたり、その内容を出版する行為を保障するということ。

 

検閲は、これらの行為を行政などによって事前に審査し、合否を決めて否とされたものの出版、展示、上演、公演を禁止するような事を指す。

 

通信の秘密とは、封書、電話やメールなど、秘密とする内容を公表してはならないということ。

また、公開しなくとも、その内容を第三者が見聞きする事を指す。

 

憲法では、集会結社、言論、出版のなどの表現の自由を保障するとしている。

また、検閲を禁止し、通信の秘密を保障するとしている。

 

これらは、憲法にある自由権の中の個別的自由権という項目。

自由権は他に、信教の自由、職業選択の自由、転居の自由、経済の自由、学問の自由、思想良心の自由など様々なものがある。

 

これら自由権は、FREEではない。

思想良心の自由を除いて、全て公共の福祉に反してはならないと制約が付いている。

 

公共の福祉というのは何か?

専門的に解説すると難しいので、ざっくりと簡単に言うと『人様に迷惑をかけてはいけない』という事だと思ってくれればいいかと。

 

自分の主義主張をするのはいいが、その手段が人様に迷惑をかけてはいけないという大前提がある。

 

例えばヌードの話。

性器を露出することは、日本においては公共の福祉に反すると考えられている。

モラルを持った社会の形成を優先するので、性器などの猥褻物を公にする事は、青少年の健全育成、社会秩序の維持などの観点からNGなわけ。

 

先の参院選の罵声問題も同じ。

聴衆は、首相が何を話すのか聞きたいわけ。

首相だって、自党の候補を当選させるため、候補の人柄、政策を訴えたいわけ。

しかし、罵声を上げる連中がいる事で、静かに話も聞けない、自分の想いを伝えられないという事態に陥る。

このような場で罵声を上げる事は『公共の福祉に反する』と判断だれるわけ。

よって、公職選挙法にも、講演を行っている場でのヤジを禁止しているのだ。

罵声を上げる連中が排除されることに、何の問題もないだろう。

 

表現の不自由展に関して言えば、それら展示物が『公共の福祉に反する』かどうかが争点になる。

日本政府の立場は、慰安婦問題は解決済みであり、過去に政府や軍部主導で慰安婦を組織運営していた事実は無いと判断している。

また、従軍慰安婦問題は、朝日新聞社によるフェイクニュースだったと、当の朝日新聞社が認めて謝罪している。

 

そのような事実に照らし、かの少女像を展示することに関して税金を投入することは問題だと考えられる。

個人が財を打って、民間の場所で展示する分には表現の自由の観点からアリだろうが、公共の施設で、税金を使って展示する内容ではない。

 

河村市長が「不適切」と判断し「撤去すべき」と発言したことを、吉村知事は「公権力による検閲」と言ったが、これは的外れである。

 

民間の敷地で、民間人が私財で展示する物に公権力が中止を求めるのは検閲と批判されるだろう。

しかし、税金を使って公共の施設で展示する場合、それなりの制約をかけるのは当然である。

また、公権力が展示の可否を決めるのも妥当である。

 

我が国の姿勢、歴史に反する展示であれば、公共の施設からの撤去が妥当なのは当然ではないのか?

知事ともあろう者が、検閲などと軽口を叩くのは異常だと思う。

 

さらに、11日の朝のテレビ番組において、桜井よし子氏が「昭和天皇の御影や焼くような展示物もあったが、自国の元首の写真を燃やすような国家がどこにあるか。」と苦言を呈していた。

橋下元大阪府知事も「元首など関係なく、個人の写真を焼くという事自体が許されるべきでない」との発言もあった。

 

全くもってその通りである。

政治家ではなく、国の象徴である昭和天皇の御影を焼くという展示のどこに「表現の自由」があるというのか。

これが表現しているのは、憎悪以外の何でもない。

とても不快である。

この他にも、旧軍時代の特攻隊員の寄せ書き日の丸をバカにするような展示物もある。

寄せ書きされた日の丸の下に、何か悪口の書かれたドームがあり、その下に星条旗が敷かれている。

一体何を意味するのかわからない。

その寄せ書きの持ち主である特攻隊員やその家族はどう思うのか。

寄せ書きを書いた人の想いはどうなのか。

 

表現の不自由展の展示物は、何らかの理由によって展示が中止されたものばかり。

つまり、元から公共の福祉に反すると烙印を押されている物を敢えて展示しようとしたわけだ。

そんなもの中止になって当然なのである。

 

決して、表現の自由の危機などではない。

決して、政府や公権力による侵害行為ではない。

 

自由権があるから、認められているから、新聞記者などという著書が出て、映画化されている。

自由が認められているから、こんな展示を企画監修しても逮捕される事なく、記者会見で自由に発言していられるのだ。

 

日本は、本当に自由な国である。

この自由は、公共の福祉に反しない限り、憲法によって保障されている。

国民の不断の努力によって、維持し、決して濫用してはならない権利なのだ。